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【EMS】ExcelsiorMusicStore(エクセルシアミュージックストア)は、アーティストで友人でもあるMetisさんの想いに共感、賛同すると共に、「音楽の力を正しく使う」このテーマに基づき「祈りづるジャパン」への協力をしています。
Metisさんは被爆三世として平和のメッセージを伝えています。
彼女自ら折鶴を祈って折ることは勿論のこと全国で訪れたライブ会場にて「祈りづる」を集めている、この活動の中心人物です。
そして彼女の想いに共感、賛同したアーティストが続々と増えて活動の輪が広がっています。
※2017年まで「祈りづるプロジェクト」の名称で活動してきましたが、2018年より【祈りづるジャパン】と新たに名称を変更して活動することになりました。
◆皆さんにご協力頂きたいこと。
太平洋戦争で無くなられた犠牲者の数、日米350万人の数だけ心を込めて命の折り鶴を折り、集めています。
次の世代へそれぞれの平和の祈りを込めて伝えて行くこと。
350万羽を世界中へ.愛で繋がって欲しいと願っています。
【祈りづるジャパン】はNPO法人「SADAKO LEGACY」の中の任意団体、実行委員会形式で活動しています。
今や平和のシンボルとして世界中に知られるようになった折鶴、千羽鶴。
このプロジェクトは、折鶴が世に知られるきっかけとなった佐々木偵子さん(享年12才)の甥でシンガーソングライターでもある佐々木祐滋さん(NPO法人Sadako Legacy 副代表)、レゲエアーティストで広島の被爆3世である Metisさん が発起人となり、日本からの世界平和への強い願いのシンボルとして、平和実現にとって意味のある世界中の場所に、佐々木偵子さん(享年12才)のオリジナルの折り鶴や全国各地から集められた折鶴の寄贈しようというプロジェクトです。
2017年には広島に原爆を投下した爆撃機エノラゲイが訓練をした米ユタ州のウェンドーバー空軍基地に寄贈を行い、日米政府関係者・退役軍人・被爆経験者・地元住民ら約100名の列席のもと、感動的な寄贈式を行うことができました。
今年は、太平洋戦争のきっかけともなった日本軍の攻撃の舞台となった真珠湾で保存されており、日本と連合国の間で降伏調印式が行われた戦艦ミズーリ記念館への寄贈を予定しています。
また今年は日本からの移民150周年にあたる記念すべき年にあたります。
ハワイは約22万人が移民をし、日米の狭間で困難な経験をした場所でもあり、特に今年このような寄贈式典をこの地で行うことにいたしました。
◆ロゴに籠められた想い。
鶴は5つの図形に分かれていて5大陸を表しています。
色は 国家、民族、政治、宗教、思想 を。
そして、それらの垣根を越えて全世界の人々が手と手を取り合い繋がって行こうと言う平和への願いのメッセージが籠められています。
また、文字の赤い丸は「日の丸」:日本を、赤い”A"はアルファベットの最初の文字、つまりスタートを表しています。
このロゴは【EMS】が制作させて頂きました。
政治信条や宗教、国籍、人種を問わず、戦争を乗り越えてから今の平和を実現できたことの素晴らしさについてあらためて考え、折鶴という日本ならではの習慣を通して、日米、そして世界平和実現への思いを新たにする機会にしたいと思っています。
そんな「祈りづるジャパン」へのご賛同をお待ちしております。
そして私Metisは広島で生まれ、祖父、祖母が原爆を体験しました。
— Metisと350万羽の折り鶴を折ろう! (@MetisOFFICIAL2) 2017年12月15日
つまり被爆三世になります。私は幼少期祖母から沢山の原爆体験のお話を聞きながら育ちました。そんな祖母は広島で平和を次世代の為に語り部をしていこうかと考えていた時期に旅たってしまいました。私が今は亡き家族の為に出来ること
フォロワーの皆さんへ
— Metis@祈りづるジャパン 350万羽の祈りづるを一緒に折ろう! (@MetisOFFICIAL2) 2019年1月10日
折り鶴を折るのにあたって🕊
・折り紙はどんなサイズでもどんな紙でも大丈夫です
・一人一人の命を想って折って頂けたら嬉しいです
・何羽折れたか数を記入
郵送先🔽
・〒731-0138 広島県広島市安佐南区祇園3丁目26−12
株式会社トモエ#祈りづるジャパン
まで❗ pic.twitter.com/sa2QFKIGI1
1984年3月28日生まれ | 出身地 広島県:被爆三世
2006年9月デビュー。
reggae,soul musicをrootsに持つシンガーソングライター。
Metisの名前の由来はギリシャ神話に出てくる叡智の女神から名付ける。
心にまっすぐ届く力強さとつつみ込むような優しさをあわせ持つソウルフルな歌声と、
LOVE&PEACEの精神あふれるリリックとメロディで注目を浴びる。
1st Single「梅は咲いたか 桜はまだかいな」がスマッシュヒットを記録。
1st Album「ONE LOVE」はオリコンウィークリーチャート20位にランクインし、
65,000枚のロングセラーとなる。
そして、2008年2月20日に4th Single「母賛歌」をリリース。
この歌が母親に感謝の気持ちを贈る歌として各方面にて話題を呼ぶ。
リリースから約1年後にはレコチョク着うたフルで第1位を獲得する。
また、昨年もっとも夏フェスに出演した女性アーティストとしても話題を呼ぶ。
2009年1月23日にはユニバーサルシグマ、Islandレーベルから
移籍第1弾Singleとなる『ずっとそばに…』をリリース。
そして、8月12日には2nd Full Album「ONE HEART」をrelease。
2010年2月3日、7th SINGLE「キミに出会えてよかった」をrelease。この楽曲はプロゴルファーの石川遼選手が広報キャラクターを務める「はたちの献血」キャンペーンのCMソングとなり、MUSIC VIDEOには女子フィギュアスケート選手の鈴木明子選手が友情出演していることでも話題となる。また、カップリングの「手を空にかざせば」はTSSテレビ新広島「わんぱく大作戦」テーマソングとなる。
8月11日、8th SINGLE「only one~逢いたくて~/ My Love」をrelease。
「only one~逢いたくて~」は映画 「きな子〜見習い警察犬の物語〜」の主題歌となる。
2011年3月2日、New SINGLE「人間失格」をrelease。
7分28秒にわたる、その鮮烈で圧倒的な歌詞の世界観で、有線3月度、4月度問い合わせチャートでダントツの1位を獲得。
震災後、何度か被災地を訪れる中で偶然出会った一台の壊れたピアノを修理し、そのピアノで「人間失格」を再びレコーディング。
タイトルを「人間失格〜生きる事は素晴らしいのです〜」とし、2011年11月2日、New SINGLE「人間失格〜生きる事は素晴らしいのです〜」をrelease。
この曲は10月度の有線問い合わせチャートで1位を獲得。
そして、12月14日に待望の3rd Full Album「ONE SOUL」をrelease。
2016年メジャーデビュー10周年を迎え、10th anniversary best album「ONE VOICE」をreleaseし全国ツアーの旅へ。
被爆三世として平和のメッセージを伝える事を忘れないMetisであり、愛し続けてきたreggae musicの原点へ帰りたいと
2017年6月に「THIS IS US」をライブ会場先行releaseを遂げる。
ライヴで納得してもらってお客さんにCDを買って頂きたいという彼女の気持ちは強い。
シンガーソングライター/ 特定非営利活動法人SADAKO LEGACY 副代表
佐々木 祐滋(ささき ゆうじ)
1970年6月6日生まれ
福岡県博多区出身のシンガーソングライター。
広島平和記念公園にある原爆の子の像のモデルである佐々木禎子の甥。
被爆二世でもあり、特定非営利活動法人SADAKO LEGACY副理事長として、世界へ伝わる禎子ストーリーを通じて、相手を「思いやる」ことや相手と「分かちあう」心を共有出来るように、禎子の遺品の折り鶴を世界各国へ寄贈し、歌を交えた講演活動や折り鶴でつながるプロジェクトを展開しながら「誰もが夢や希望を叶えられる世界」の創造を目指している。
活動のきっかけは、バンドのボーカルとして活動中、佐々木禎子の甥としての経歴から、とある戦争体験者の方々に「あなたにも禎子のDNAが入っているのだから、禎子の物語を語り継ぐ責任がある」と告げられ、2000年に自身がボーカルを務めるバンド「GOD BREATH(ゴッド・ブレス)」を結成し、叔母である禎子を語り、歌を通じて命の尊さを訴える活動を始める。
その後、禎子をモチーフにした楽曲を作り、世界各地で高い評価を得る。 また全国の小中学校や各地の平和イベントにも参加。現在、学校ライブを行った学校数はのべ500校を超える。
2009年からはソロ活動をスタートさせ、禎子の思いを綴った曲『INORI』が2010年7月21日にソニーミュージックレコーズよりメジャーデビュー。
同曲をカバーした「クミコ」さんは、2010年NHK紅白歌合戦にこの『INORI』で初出場し、ヒットメーカーの仲間入りを果たした。
またアメリカの有名ロックバンド「MR.BIG」のボーカル、エリック・マーティン氏も自身のカバーアルバム「MR.VOCALIST」のベスト盤新録として「INORI」をカバーしている。
◆佐々木禎子との関係
父・雅弘は禎子の2つ年上の実兄で、広島原爆投下時には、広島に居住、妹・禎子とともに被爆している。妹の禎子は12歳で白血病を発病し亡くなったが、雅弘には症状は出ず、佐々木家は戦後福岡へ転居。祖父母(禎子の父母)も同地に生前居住しており、祐滋は幼少の頃より、祖父母から禎子の逸話を聞かされていた。
SADAKO LEGACYは、今や世界中に周知されている「サダコ」の名前と折り鶴を通して、グローバルネットワークを構築し、世界中で行われている、折り鶴を折る行為が「社会貢献活動」となり、世界のみんなが等しく生きられ、等しく教育を受けられる支援につながる事を、もっと、自分の事として受け止め、「想いやり」の心を持って、皆さんが必要とする助け合いの活動を具現化していく事を使命としていきたいと思います。
【情報解禁:2018年2月4日】
SADAKO LEGACY-サダコレガシー米国NPO法人「THE PAPER CRANE FOUNDATION 」の設立準備が整いました。
トルーマン元大統領の孫であるクリフトンさんと共に立ち上げます。
設立日はおってお知らせします。
※情報解禁は、佐々木禎子さんの御尊父(佐々木 祐滋さんの御尊祖父)の命日に発表されました。
広島平和記念公園にある 「原爆の子の像」のモデルとなった少女・「佐々木禎子」さん。
平和記念公園内ではいたる所で、色鮮やかな折鶴が見受けられます。折鶴は日本の伝統的な文化である折り紙の一つですが、今日では平和のシンボルと考えられ、多くの国々で平和を願って折られています。このように折鶴が平和と結びつけて考えられるようになったのは、被爆から10年後に白血病で亡くなった少女、佐々木禎子さんが大きくかかわっています。
佐々木禎子さん(当時12歳)は、2歳のときに被爆しましたが外傷もなく、その後元気に成長しました。しかし、9年後の小学校6年生の秋(昭和29年・1954年)に突然、病のきざしが現れ、翌年2月に白血病と診断され広島赤十字病院に入院しました。回復を願って包み紙などで鶴を折り続けましたが、8か月の闘病生活の後、昭和30年(1955年)10月25日に亡くなりました。
禎子さんの死をきっかけに、原爆で亡くなった子どもたちの霊を慰め平和を築くための像をつくろうという運動が始まり、全国からの募金で平和記念公園内に「原爆の子の像」が完成しました。その後この話は世界に広がり、今も「原爆の子の像」には日本国内をはじめ世界各国から折鶴が捧げられています。
佐々木禎子さんの存在は、「千羽鶴=平和のシンボル」として世界中に広がっています。叉現在では佐々木禎子さんの遺品の折鶴も今世界の様々な場所に展示してあります。シアトルの平和公園など世界の様々な所に銅像・石碑なども多数存在しています。
◆禎子さんが折った鶴の主な寄贈先
2007年 9・11米中枢同時テロ追悼施設「トリビュート・センター」(米国)
2009年 ヨーロッパ平和博物館(オーストリア)
2012年 アリゾナ記念館(米国)
2013年 沖縄県沖縄市
ファーラビー映画財団(イラン)
広島市立幟町小学校(禎子さんの母校)
2015年 新潟県長岡市
福島県郡山市
ブラジル被爆者平和協会(ブラジル)
トルーマン・ライブラリー(米国)
千葉県我孫子市
2016年 全米日系人博物館(米国)
ジュウイッシュ会館(米国)
ウクライナ
2017年 神奈川県茅ケ崎市
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